Scene 01 · Notes

解説 場面 1「あの女性」

この場面の解説

語り手ワトソンが、感情を嫌う推理機械のようなホームズにとって、アイリーン・アドラーだけが特別な「あの女性」であったことを語る。

表現・文法のポイント

she is always the woman
定冠詞 the を強く読み、「ほかの誰とも比べられない唯一の女性」という意味を込めている。原文では the woman がイタリック体で、名前ではなく称号のように使われている点が印象的な書き出しだ。
save with a gibe and a sneer
save は前置詞で「〜を除いて」(except と同じ)。never ... save ~ で「~のとき以外は決して…しない」となる。古風で硬い言い回しで、恋愛を話題にするのは皮肉や冷笑を込めるときだけだった、という意味だ。
I take it
「私が思うに」「おそらく」と挿入句として使う口語表現。断定を少し和らげつつ自分の見立てを述べる言い方で、現代英語でも I take it (that) you're busy.「忙しいんだろうね」のように使われる。
the late Irene Adler
名詞の前に置く late は「遅い」ではなく「故〜」「今は亡き」の意味。the late Mr. Smith のように使う。of dubious and questionable memory は「いかがわしい評判を残した」という皮肉めいた言い回しだ。

背景・時代

ワトソンの語り
ホームズ物語の大半は、相棒の医師ワトソンが一人称で書いた記録という形をとる。読者はワトソンの目を通してホームズを見るので、ホームズの頭の中は最後まで分からず、謎解きの驚きが生まれる仕掛けになっている。
高倍率レンズ
ホームズを精密な「機械」や「器具」にたとえる比喩が続く。顕微鏡や望遠鏡など光学機器が科学の象徴だった時代らしい表現で、感情はその精密機械に入り込む砂粒やひびのような邪魔物として描かれる。

全文の対訳

To Sherlock Holmes she is always the woman. I have seldom heard him mention her under any other name. In his eyes she eclipses and predominates the whole of her sex. It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen, but as a lover he would have placed himself in a false position. He never spoke of the softer passions, save with a gibe and a sneer. They were admirable things for the observer—excellent for drawing the veil from men's motives and actions. But for the trained reasoner to admit such intrusions into his own delicate and finely adjusted temperament was to introduce a distracting factor which might throw a doubt upon all his mental results. Grit in a sensitive instrument, or a crack in one of his own high-power lenses, would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his. And yet there was but one woman to him, and that woman was the late Irene Adler, of dubious and questionable memory.

シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女性」だ。彼がほかの呼び方で彼女のことを口にするのを、私はほとんど聞いたことがない。彼の目には、彼女はほかのすべての女性をかすませ、その上に立つ存在なのだ。といっても、彼がアイリーン・アドラーに恋に近い感情を抱いていたわけではない。あらゆる感情、とりわけ恋愛感情は、冷たく正確で、しかも見事に均整のとれた彼の頭脳にとって忌まわしいものだった。思うに彼は、世界がこれまでに見た中で最も完璧な推理と観察の機械だった。だが恋する男としては、自分を場違いな立場に置くことになっただろう。恋のようなやわらかな感情を語るとき、彼は必ずからかいと冷笑を添えた。観察する側にとって、感情はすばらしい材料だった。人の動機や行動を覆うベールをはがすのにうってつけなのだ。しかし鍛えられた推理家が、繊細に細かく調整された自分の気質にそんな侵入者を許せば、頭で導いたすべての結論に疑いを投げかけかねない、心を乱す要素を持ち込むことになる。精密な器械に入った砂粒も、彼自慢の高倍率レンズのひびも、彼のような性分の人間にとっての強い感情ほどには厄介ではないだろう。それでも、彼にとって女性はただ一人しかいなかった。その女性とは、いかがわしく怪しい評判を残した、今は亡きアイリーン・アドラーである。

難易度の高い単語 (☆ で覚えたい単語に入れる)

  • predominates(プリドミネイツ)… 上回る・優位に立つ難
  • akin(アキン)… 似ている。akin to で「〜に近い」難
  • abhorrent(アブホラント)… ひどく嫌な・忌まわしい難
  • gibe(ジャイブ)… あざけり・からかい難
  • particularly(パティキュラリー)… とりわけ
  • questionable(クエスチョナブル)… 疑わしい
  • temperament(テンペラメント)… 気質・性分
  • distracting(ディストラクティング)… 気を散らす・心を乱す

次の場面:離れていた二人 Drifted Apart

ワトソンは結婚して、ホームズと暮らしたベイカー街の下宿を出た。新しい家庭に夢中のワトソンと、下宿に残って古い本とコカインと難事件に明け暮れるホームズ。二人はしばらく顔を合わせていない。