Scene 45 · Notes

解説 場面 45「音楽家ホームズ」

この場面の解説

音楽会のあいだ、ホームズは至福の表情で演奏に聴き入っている。ワトソンは、彼の中で夢見がちな気分と鋭い探偵の顔が交互に現れることを思い返す。音楽に浸りきった彼の姿を見て、ワトソンは、彼に狙われた者たちに悪い時が迫っていると感じる。

表現・文法のポイント

a composer of no ordinary merit
no ordinary ~ は「ふつうではない~」、つまり「並々ならぬ~」。not ではなく no を名詞の前に置くと、強い否定から逆に強い肯定の意味になる。merit は「(すぐれた)価値、才能」。
as it was possible to conceive
as unlike A as it was possible to conceive で「想像しうるかぎり A と似ていない」。as ~ as possible(できるだけ~)の仲間で、conceive は「思い描く」。夢見るような顔と、冷徹な探偵の顔との落差を最大限に強めている。
he was never so truly formidable as when
never so ~ as when … は「…のときほど~なことはない」、つまり「…のときが一番~だ」。formidable は「手ごわい、恐るべき」。何日もぼんやり過ごしたあとこそ最も恐ろしい、という逆説を言っている。
look askance at him
look askance at ~ は「~を横目で見る」から転じて「~を疑いの目で見る、うさんくさく思う」。ホームズのやり方を知らない人には、彼の推理が人間わざとは思えず、気味悪く見えたということ。

背景・時代

セント・ジェイムズ・ホール(St. James's Hall)
ロンドンのピカデリーとリージェント街のあいだにあった演奏会場で、1858年に開かれた。当時のロンドンを代表する音楽ホールで、ヴァイオリンの名手サラサーテもここで演奏した。1905年に取り壊された。
ひげ文字の本(black-letter editions)
black-letter は、中世ヨーロッパで使われた太く角ばった書体(ゴシック体、ひげ文字)。この書体で刷られた本は15〜16世紀ごろの古い版が多く、愛書家が集める珍しい古書だった。

全文の対訳

My friend was an enthusiastic musician, being himself not only a very capable performer but a composer of no ordinary merit. All the afternoon he sat in the stalls wrapped in the most perfect happiness, gently waving his long, thin fingers in time to the music, while his gently smiling face and his languid, dreamy eyes were as unlike those of Holmes the sleuth-hound, Holmes the relentless, keen-witted, ready-handed criminal agent, as it was possible to conceive. In his singular character the dual nature alternately asserted itself, and his extreme exactness and astuteness represented, as I have often thought, the reaction against the poetic and contemplative mood which occasionally predominated in him. The swing of his nature took him from extreme languor to devouring energy; and, as I knew well, he was never so truly formidable as when, for days on end, he had been lounging in his armchair amid his improvisations and his black-letter editions. Then it was that the lust of the chase would suddenly come upon him, and that his brilliant reasoning power would rise to the level of intuition, until those who were unacquainted with his methods would look askance at him as on a man whose knowledge was not that of other mortals. When I saw him that afternoon so enwrapped in the music at St. James's Hall I felt that an evil time might be coming upon those whom he had set himself to hunt down.

わが友は熱心な音楽家で、自身たいへん腕の立つ演奏家であるばかりか、並々ならぬ才をもつ作曲家でもあった。午後のあいだずっと、彼は一階席で至福に包まれて座り、長く細い指を音楽に合わせて静かに揺らしていたが、そのおだやかにほほえむ顔も、物憂げで夢見るような目も、猟犬のようなホームズ、容赦なく、頭が切れ、手際のよい犯罪捜査人としてのホームズのそれとは、およそ想像できないほどかけ離れていた。彼の風変わりな性格の中では、二つの性質がかわるがわる顔を出すのであって、その極端なまでの正確さと鋭さは、私がよく思うように、ときおり彼を支配する詩的で瞑想的な気分への反動なのだった。彼の性分は、極度のけだるさから、すべてを呑み込むような精力へと大きく振れるのだったが、私がよく知るとおり、何日も続けて肘掛け椅子に寝そべり、即興の演奏やひげ文字の古書に浸っていたあとほど、彼が真に手ごわくなることはなかった。そんなときこそ、追跡への渇望がにわかに彼をとらえ、そのみごとな推理の力は直観の域にまで高まるので、彼のやり方を知らない者たちは、まるで並の人間とは違う知識をもつ者を見るように、うさんくさげに彼を見るのだった。その午後、セント・ジェイムズ・ホールで音楽にすっかり浸りきっている彼を見て、私は、彼が追い詰めると心に決めた者たちに、悪い時が迫っているのかもしれないと感じた。

難易度の高い単語 (☆ で覚えたい単語に入れる)

  • stalls(ストールズ)… (劇場の)一階前方の席・売店難
  • languid(ラングウィッド)… けだるそうな・物憂げな・元気のない難
  • sleuth-hound(スルースハウンド)… 猟犬のような探偵・追跡用の猟犬難
  • relentless(リレントレス)… 容赦のない・執拗な難
  • keen-witted(キーンウィッティッド)… 頭の切れる・機転のきく難
  • ready-handed(レディハンディッド)… 手際のよい・すぐに行動できる難
  • conceive(コンスィーヴ)… 想像する・思いつく難
  • alternately(オールターナトリー)… 交互に・かわるがわる難
  • asserted(アサーティッド)… (~ itself で)現れた・主張した(assert の過去形)難
  • exactness(イグザクトネス)… 正確さ・厳密さ難
  • astuteness(アステュートネス)… 鋭さ・抜け目なさ難
  • contemplative(コンテンプラティヴ)… 瞑想的な・思いにふける難
  • predominated(プリドミネイティッド)… 優勢だった・支配的だった(predominate の過去形)難
  • languor(ランガー)… けだるさ・無気力難
  • devouring(ディヴァウアリング)… むさぼるような・激しい・むさぼり食う難
  • formidable(フォーミダブル)… 恐ろしい・手ごわい難
  • amid(アミッド)… ~に囲まれて・~の中で難
  • improvisations(インプロヴァイゼイションズ)… 即興演奏(improvisation の複数形)・即興難
  • black-letter(ブラックレター)… ひげ文字(ゴシック体の古い活字)の難
  • lust(ラスト)… 強い欲望・渇望難
  • unacquainted(アナクウェインティッド)… 知らない・なじみのない難
  • askance(アスキャンス)… (look askance で)疑いの目で・横目で難
  • mortals(モータルズ)… 人間・ふつうの人(mortal の複数形)難
  • enwrapped(インラップト)… すっかり包まれた・夢中になった難

次の場面:今夜、犯罪が A Crime Tonight

音楽会が終わって外へ出ると、ホームズはワトソンに家へ帰りたいだろうと声をかける。自分はこれから数時間かかる用事があるという。そして、コバーグ・スクエアの一件は重大だと言い出す。大きな犯罪がたくらまれていて、今日が土曜日なのが事を面倒にしているらしい。ホームズは今夜十時に手を貸してほしいと頼む。